安房鴨川〜大網
安房鴨川に到着です。そろそろ旅も中盤にさしかかる頃合い。
安房鴨川から外房線ですが、短い乗り継ぎ時間がそんな余韻を感じさせる前に
我々を次の列車の車内に押し込めてしまいました。
安房鴨川発車は到着の三分後。車両は再び千葉行きの113系です。時間がなかったので写真は採ってません(モハ112-2062)
車中はガラガラでまたも鉄研が車端の3ボックスを占領。
相席は確か、青梅特快豊田・txp・fukkuu268の三人でした
腹が減ってきたので千葉で買った弁当を開けたいと思います
弁当の中身は撮ってないですが、豚の焼き肉が二枚ご飯の上に乗ってる、
ごく普通の弁当でした。
途中勝浦から御宿までの区間で走行音の録音にチャレンジ。
窓を開けた方が集音性が良いかと思って全開にしていたら、これがとんでもない大間違いで、
家に帰って聞いてみたら列車が風を切る音しか録れてませんでした。うわぁ…
大網までの道中、数人が眠りこけてました。不思議なことにどんなに深く眠ってても、
皆降りる駅に着くとパタッと起きるんですよねぇ。某氏が起きて悔しがっていた人も
相当数見受けられましたが…。一時間半ほどで東金線の乗換え駅、大網に到着です。
ここで小噺
その起源を同じ房総線(東線・西線)に持ち、なにかと比較されることのある外房・内房両線。
その車窓を見ていていて思ったことを少々。
内房線では、街が途切れる木更津から先は小さな漁村が断続的に続いていて、
そのそれぞれに駅があり、一駅一駅の規模も比較的小さく館山まであまり大きな駅がありません。
それに対して外房線は、比較的大きな街(大原・勝浦など)が拠点になって、
そこにヒトやモノが集中しているような印象を受けました。
自分なりにこれが何故かを考えたのですが、結論としては、
やはり東京湾に対する漁業体系と太平洋に対するそれの違いなのではないかということです。
街の形成にはその土地の産業の形が大きく関わってきます。これは自明です。
では何故同じ漁業が盛んな両房でそんない差が出るのか。
それは沿岸漁業と遠洋漁業の性質の違いに起源するというのが私の意見。
同じ漁業でも、東京湾側で盛んなのは、湾内で取れる穴子や小型魚、貝類などを採る沿岸漁業です。
今この文章を読んでいる方の中にも、木更津に潮干狩りに行ったりしたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
一方の太平洋側で盛んなのは、遠くの海まで繰り出してマグロやカツオを一本釣りしたりするなど、
比較的大型の魚を採る漁業です。数年前、太平洋上で海上自衛隊のイージス艦あたごとマグロ漁船の清徳丸が衝突した事故で、
清徳丸が勝浦漁協の所属だったことや、当時の石破防衛大臣が勝浦まで直接謝罪しに行ったりしたことは、
当時散々報道されたのでまだ記憶に新しいところかと思います。
内房で盛んな沿岸漁業には、大きな船は要りません。小さな船着き場から個人個人で出港し、その日の内に帰港すればそれで良い。
同じ場所に固まって暮らすことは、漁場の固定化→資源の枯渇を招く上、不必要な縄張り争いを生んでしまう。
だからバラバラに暮らした方が合理的。…このような環境が小さな集落が点在する状況を作ったのではないでしょうか。
一方の遠洋漁業では、そういう訳にもいきません。遠洋への航海は危険を伴うため、数隻の大型漁船が集団で行動します。
その上すぐには帰ってこれませんから、出港する前に食糧・水等の資源を買い込んで積んでおく必要があります。
それは、設置場所の限られる比較的大きな漁港の必要性と、物資の集まる環境の必要性を意味します。
それには、集落がバラバラになっているよりかは、一か所或いは決まった数か所に集中して暮した方が合理的でしょう。
こういった経緯で今のような街の形態になった、と私は考えるのですが、皆さんはいかがでしょうか?
なお、この傾向は特急の停車駅にも顕著に見られます。外房特急わかしおの停車駅が、
大網・茂原・上総一ノ宮・大原・御宿・勝浦・上総興津・安房小湊、
とほぼ固定化されているのに対し、内房特急さざなみの場合は停車駅が完全にバラバラで、
特に君津から先館山までの中間11駅の内、竹岡・那古船形を除くなんと9駅にはなんらかの形で止まります。
さざなみの危機的状況は前に説明しましたが、わかしおはまだまだ安泰どころかむしろ増発しています。
優等列車は停車駅が固定的であった方が、便利で分かり易く乗り易い、とも言われます。
高速道路の開通だけでなく、意外とこんなところにもさざなみ衰退の原因があるのかもしれませんね。
大網〜成東
大網の駅で東金線に乗り換え。東金線は、外房線大網と総武本線成東を結ぶ、全五駅の短い地方交通線です。
大網駅は外房線と東金線のホームが離れていて、連絡通路のようなものを通るのですが、結構移動が大変でした。
この写真は東金線ホームから撮った外房線大網駅です。
気になって調べてみたら、1972年からこんな駅構造をしているようで…
ホームが一体だったそれ以前は、東金線から大網駅で千葉・鴨川方面に分岐する構造になっており、
外房線の列車は大網でスイッチバックをしなければいけなかったんだとか。その解消の為に今の構造になったそうです。
他の所のイメージで言えば、ここでしょうか。←図はウィキペディアから引っ張ってきました。
府中本町を成東、蘇我を鴨川、東京を千葉と置き換えて考えてみましょう。
この図で言った場合、武蔵野線のラインが東金線、京葉支線のラインが旧外房線です。
1972年以前はこの図で言うところの二俣新町経由の線路が無く、大網駅は西船橋の位置にありました。
これに二俣新町経由の京葉線のラインを加えて、さらに南船橋〜西船橋の京葉支線(成東方向から鴨川方向へ向かう旧外房線)を
消した形が現在の外房線の形です。駅は市川塩浜の位置に移動し、
西船橋〜市川塩浜の京葉支線(つまり旧大網〜現大網間の旧外房線)も東金線になりました。
その駅移転の際、地形の関係で分岐点より鴨川・成東側の所にしか駅を作れなかったために今のような構造になってしまったようです。
さて、どうでもいい大網駅での一コマ。外房線から東金線のホームへと急いで移動する部員達の横を歩いていた少女が、
隣の母親に向かって一言。「ママ〜、この駅何も無いねっ。」 これには一同吹き出しました(笑)
やっと本筋に戻って東金線ホーム。待っていたのは209系です。昼間の東金線は一時間に一本で、基本的には千葉から東金線内へ直通列車。
車内には時間がら帰宅途上と思える学生の姿もちらほら。その他にも結構人がいて、外房線よりむしろ客の入りは良かった感じがしました。
その上発車間際の乗車で始発列車でも無かったので今度は座れませんでした。乗ったら直ぐに発車。(モハ208-2157)
東金線は全線単線で、途中の東金と求名の駅に交換設備があります。…ところで、車端に立って乗っていて初めて気がついたんですが、
209系にトイレがあるのにすごく違和感があるんですよね。やっぱり我々の世代にとっては209系は近郊型ではなく、あくまで通勤型なんだよなぁ。
20分ほどの乗車で成東に到着です。